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日本史上のイギリス

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下関戦争(四カ国連合艦隊、下関を襲撃)



幕末、ペリーの来航により開国した幕府だが、日本国内、特に反幕府派からは、攘夷論が根強く叫ばれていた。
反幕府派は外国嫌いの朝廷をうまくコントロールし、朝廷を通し幕府に対して攘夷の即時実行を命じた。

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下関戦争幕府側は、反幕府派が背後にいることを知りつつも、文久3年(1863年)の「5月10日を期して、攘夷を行う」と宣言せざるを得なくなった。

すでに開国し、各国と条約まで結んで(不平等だが)通商を始めた後のことで、今更の攘夷実行など非現実的ではあるが、朝廷に対して、建前だけでもそのように返答せざるを得なかった。

しかし、実際に具体的な攘夷活動を行ったのは、朝廷を背後で操り、攘夷命令を出させた張本人である長州藩のみであった。

その活動とは、下関海峡(当時は馬関海峡)を通過する外国籍船に対し、無差別に砲撃を加えるというもので、攘夷期限の5月10日、アメリカ商船ペムブロークを砲撃したのに続き、5月23日にはフランス商船キンシャンを砲撃、さらに5月26日、オランダ軍艦メデューサを砲撃した。

馬関海峡は、長崎と横浜を結ぶ重要な航路であったため、外国船の往来も多く、諸外国の悩みの種となった。

砲撃された側も黙ってはおらず、アメリカ軍艦ワイオミングは長州藩に報復のため下関来航、長州藩の軍艦である庚申丸、癸亥丸、壬戌丸を沈めると、悠々と立ち去った。
長州艦隊は、僅か1隻の軍艦により全滅する。

フランスは東洋艦隊を派遣、旗艦であるセミラミスは砲撃により湾岸の砲台を沈黙させた後、陸戦隊を上陸させ前田・壇ノ浦両砲台を占領した。
フランス軍の目的は報復であったため、占領軍は駐屯せず、目的を果たすとさっさと帰ってしまった。

しかし、この後も長州藩はさらに砲台を増強し、外国船に対する砲撃を止めることはなかった。

 
いっこうにやまない長州藩の無差別砲撃に対し、イギリス公使オールコックは長州を叩くため、米仏蘭に呼びかけ、四カ国連合艦隊を編成、長州藩に対し、大々的な報復活動を行うことを決した。
ロンドン留学中にこの情報を得、急ぎ帰国した井上と伊藤は、四カ国連合艦隊との戦争を避けるべく奔走するが、その甲斐もなく戦闘は開始された。
連合艦隊は下関海岸砲台を砲撃し、陸戦隊を上陸させ、海峡沿岸の砲台を全滅させた。

おりしも蛤御門の変(※)後、幕府の長州征伐軍が迫っており、八方塞となった長州藩は、高杉晋作を引っ張り出し、(脱藩の罪で野山獄に投獄、後に自宅謹慎にされていた)連合艦隊との交渉役の任を与えた。(連合艦隊の通訳を務めたアーネスト・サトウは、鎧直垂に陣羽織という武者姿で現れた高杉を「大魔王」と言っていた。)

自分達から吹っかけた戦争で、しかも敗軍の代表という不利な立場ながら、高杉は彦島租借という要求を突っぱね、賠償金300万ドルは「幕府の命による攘夷活動である」と幕府になすり付けた。
 

長州側は、外国船の海峡の安全航行・薪炭の供給などを約束し、講和が成立、難題を解決した。
連合艦隊の強力な近代兵器は、攘夷一辺倒だった長州藩の方針に多大なまでの影響を与えることとなった。

※蛤御門の変(禁門の変) 1864年8月
同じく尊王派として活動していた薩摩藩が朝廷工作をし、長州派の勢力を京から一掃。(八月十八日の政変、1863年8月)
長州藩はこの処遇に対し、陳情のため上京したが、薩摩・会津を中心とする幕府軍と武力衝突し、敗れた。これにより長州藩は朝敵となり、幕府に長州征伐を受けることとなる。
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